なんか、納得できなかった
どうもまとまりすぎていて、気味が悪い。でき過ぎの説明だから、疑わしい。ほとんど本能的な警戒感。そういうことって、ないだろうか。
実は、私にとっては前回の「中国は懐が深い説」がこのクチだった。
自分で一度「説得された」と決めておきながら、私はやっぱりこの説に全面的には納得できず、おしりの辺がむずむずしていた。理由はうまく説明できないのだが、どうもコトの本質をついていないのではないかと疑いがあったのだ。
すると、新説が登場したのである。
イタリア料理店で中国人の友人と焼きたてのピッツアを頬ばっていたら出てきた話である。中国で一般にどの程度「聊斎志異」が読まれているのか知らないが、最近読んだばかりの私と話が合うほど、彼女は内容をよく覚えていた。映画が共通の話題になることはあっても、書籍、それも古典でこういうことは少ない。私たちは喜び、スプマンテをどんどん飲んだ。そして、ああだこうだとやっているうちに、話は面白い方向へ転がっていった。
オバケたちではなく、物語に登場する主人公たちの性質に注目してみる。主人公は男性が多いが、中でも貧乏で人品卑しからぬ受験生、あるいは学者というのが無闇に多い。これは、作者である蒲松齢と、この物語を回し読みしていた読者たちの身分をそのまま反映している。
一七世紀の中国は受験社会である。歴史の時間を思い出して欲しい。「科挙」という官吏登用制度があり、学問が尊ばれる一方で、試験に通って出世できてナンボの世界でもあった。
そんな時代を生きる彼らのエンターテインメントとして、「聊斎志異」は生まれたのだ。
先のわからない受験生の身分では、もちろんモテない。かといって、大きく羽目をはずすにはプライドが高すぎるし意気地もない。「恋しちゃならない受験生」である。現実にはちっともいいことがなかった彼らにとって、オバケだろうが何だろうが、相手をしてくれる美女の存在を想像させてくれる物語は、血沸き肉踊るものだったのではないか。
そう考えていくと、あっ、道理で男に都合のいいストーリーがやけに多いはずだ! と得心がゆくのだ。
「聊斎志異」の中で、口説きの場面がとても少ない理由もこれで説明できる。そんな場面は、読んでも楽しくないのだ。面倒はすっ飛ばして、さっさとお床入りし、えもいわれぬ香りを体中から漂わせる足の小さな美女と実事に及びたいのである。
だから、オバケの麗人を妻として迎えた場合には、彼女たちは実によく働き、親への気遣いも忘れず、家をもり立てて、その上優秀な子を産む。そういうストーリーばかりなのは、読者の願望を体現しているのである。
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つまり、端的に言ってしまえば「聊斎志異」は男性用ハーレクイン・ロマンスである、という解釈になる。
オバケと超常現象は、八方ふさがりの受験生生活にロマンスが成立する必然性を作るために、またそのロマンスの味付けとして、ぜひとも必要だったのだ。
容姿端麗で、出会ったばかりの男に惚れてしまい、結婚すれば模範的な妻になり、男を出世させる。オバケだろうが人間だろうが、そんな都合のいい女がいるわけがない! と「聊斎志異」を批判しても無駄だ。それは、財産家で、ハンサム、教養もある上、背が高い男が、突然平々凡々なヒロインを口説き始めるわけがない! という、ハーレクインロマンスに対する批判と同じくらい不毛なのだ。だって、もともとこれは夢物語なんだもーん。
なあんだ、そうだったのか
さて、そういう前提で、あらためて幾篇か読んでみる。
お下げの少女が…手にした花で差し招く。…いきなり抱きしめると形ばかり抗ってみせただけだったので… (壁画の天女 画壁)
布団の中が冷えてはいないかと、手を差し入れてみた…すべすべした人の肌に触ったので、ぎょっとして…美しい女である。上品な顔立ちに真っ白な歯がこぼれている。…狂喜して、戯れに下のほうへ手を入れてみた… (女妖と二人の男 董生)
うとうとしかけたとき、誰かが部屋に入ってきたような…どうしたのかと聞くと、娘がにっと笑った。「あまりいいお月夜なので眠れないんです。かわいがっていただけないかしら。」 (蘇った美女 聶小倩)
なるほど。
というわけで、「聊斎志異」はピッツアとスプマンテにもあうことが判明した。だが、そんなことよりも、私は夢見がちなこの作者に一言、「ええかげんにせいよ!」と言ってやりたい。
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